大阪市東淀川区を10倍楽しく暮らせる地域情報ネット
情報検索 情報 お店
上新庄ネット

「上」と「下」って誰が決めるの?

このおしえてBBSは上新庄ネット(上新庄界隈主に大阪市東淀川区)の掲示ばんです。新規書き込みフォームへ [戻る]
王様のレストラン 2001/11/19(月) 13:09:15
 ふと思った。
 上新庄と下新庄、何が「上」で何が「下」なんだろう。
 誰か地名の由来を知ってる人、いませんか?他の地域にもいっぱい「上」と「下」で地名がついてるところもあるけど、気になる。
 発展っぷりかなあ。確かに下新庄駅前と、上新庄駅前は月とスッポン以上だけど、それじゃあなんか失礼だし。
 めっちゃ知りたいです。行政担当の方とかもHP見てらっしゃったら、ぜひ教えてください。気になって夜も眠れません。(ウソ)

かんま [E-Mail] 2001/11/20(火) 00:09:57
なんでか、わかりませんが、いろいろ調べていましたら、「上手」「下手」で、こんな記載がありました。

(舞台用語で、客席から 舞台に向かって右 が『上手』、左 が『下手』とされているそうです。
はるか昔‥‥、まだ電灯が無かった頃。芝居小屋の照明装置は唯一、客席階上にある『窓』だけで、その窓を日光の入りやすい『南』の空に向けるため、その頃の劇場は必ず客席が 『北側』を向くように作られたため、当然、舞台に向かって 右は『東』、左は『西』になるワケだが、この時代は『江戸』のある方角が『上』とされていたために 東側を上手 と呼ぶようになった。)

推測ですが、これから、東側の新庄が、上新庄になり、西側の新庄が、下新庄になったんじゃないでしょうか?

まい [E-Mail] 2001/11/20(火) 01:04:43
私は南北だと思っていました。
私の実家の周りには、
「上三条」「下三条」「上祇園」「下祇園」「中山手」「下山手」
といった地名がありますが、いずれの場合もくっきり、
「上」が北、「下」が南、という位置関係であったので、
なんとなくそうかなぁ、と。
それ以上の根拠はないんですが・・。

王様のレストラン 2001/11/20(火) 12:47:24
 かんまさん!まいさん!ほんっとにくだらない質問につきあってくださって、本当にありがとうございました!!おかげで今夜は安眠できそう。助かりました。でも、上新庄と下新庄は北と南の関係にはなってないような気もするんですが。
 あと、「中新庄」ってなんでないのかなあ。

DOK 2001/11/21(水) 11:40:29
大阪の場合、大阪城から見た地名が多いようです。
今の中心は東京なので、東京に行く便を「のぼり」とかいうようにです。
ただ、新庄地区はこれじゃなくて、純粋に「上手(かみて)」の意味だと思ってました。
だって、農業するには水がいる=上新庄のほうが「川上」になっている。

自分の田舎にも同じような由来の名前がたくさんあるので、まずあってるとは思います・・・多分(^^;

上新庄に住んで40年 2002/02/16(土) 20:36:42
えーっと、
昔々は、上新庄、下新庄、あわせて新庄だったと聞いています。
それが下新庄が独立して、上新庄と下新庄になったようです。
という訳なので、中新庄は無いようです。
その名残で、上新庄駅近くの小学校は、新庄小学校で、上新庄小学校ではありません。
DOKさんのおっしゃるように、中島用水路の上流側、下流側ということで上下の名前が付いています。
この中島用水路は、今は埋められて、上を新幹線が通っています。

メンフィス 2002/02/19(火) 23:28:27

※相変わらずの長文レスで失礼します。 (^^ゞ

 以前、東淀川区の歴史について調べたことがありますで、地名の由来という側面から、私の知っていることを書き込ませてもらいますね。

 【新庄】という地名の由来ですが、戦国時代に在った【江口城】が、この地に新しく出城を築いた事に由来しているそうです。
 その後、【新城】→【新荘】→【新庄】となり、現在の【上新庄】【下新庄】となったようです。

 【江口城】は、1546年(天文15年)、戦国武将・三好長慶の従弟の"三好宗三"が、管領・細川晴元の庇護のもと、現在の南江口2丁目付近に構えた城なのだそうです。

 三好長慶も、細川晴元に可愛がられたようですが、父親の三好元長を細川晴元に殺され、和泉国と河内国の代官に任じられたことから、1549年(天文18年)、細川晴元打倒の兵を挙げ、それを引き止めようとした江口城の城主・三好宗三と抗争となってしまい、同年6月、2万騎を引き連れた三好長慶軍によって江口城は攻め落とされてしまったようです。

 『万松陰殿穴太記』によれば、「江口は四方に大河渺々として沙頭道狭きに、波打ち際まで逆茂木引かけたれば、容易く寄せ難し」と、江口城はなかなか堅固な城だった様子ですが、兵糧攻めにはさすがにかなわず、最終的には三好宗三は同月24日に城から打って出て、淀川に飛び込んでの奮戦も及ばす、華々しく戦死したとのことです。
 「死する者一千三百八十一、血は大地を染め、屍重なりて山岳をなす」ともありますから、戦国時代のこの付近の荒れかたはすさまじく、ひょっとして現代に怨霊が出ても不思議ではないかも!?ですね。 (笑)

 『摂津誌』によれば、江口城は三好長慶の居城となった後、中川一族の拠点となって、1578年(天正6年)頃、中川清兵衛清秀が現在の下新庄地区に新しく出城を築き、これがすなわち【新庄】の名の由来となったようです。

 因みに中川清兵衛清秀は、1583年(天正11年)、豊臣秀吉の家臣として賤ヶ岳に出兵し、柴田勝家軍と合戦して討ち死にしたそうです。

 上下の別ですが、明治期になって新庄村が分村して摂津国西成郡上新庄村・下新庄村となったようです。
 中島大水道説、都(御所)に向けての敬称説などと色々あるようですが、残念ながら由来を示す資料には行き至らず、私の見落としかも知れませんが、今までハッキリとは判らずにいました。
 上新庄に住んで40年さんは中島大水道説を断定されていますが、出来ればその根拠を示す資料や古文書の所在をご存知で、もしも差し支えがないようでしたら、私のような"にわか郷土史家"の為に是非お知らせ(レス)願えませんでしょうか?
 これで今までの頭の中のモヤモヤがスッキリしそうです。 (^^;

 蛇足ですが、昔は御所から都(南の方角)に向かって左右を分けたので、話はもっと複雑です。
 今の地図では北が上になるように作成されているのが普通ですが、今のルールで京都を地図で見ますと、地図上での左(西側)に在るのが右京区で、右(東側)に在るのが左京区となります。
 ややっこしいですね。(笑)

セブンス [E-Mail] 2002/02/22(金) 14:08:45
初めまして 新庄の上と下の件ですが、私が小さい頃、肩引きの荷車の横に西成郡新庄村字上新庄と書かれていた記憶があります。
新庄地区は広く、下新庄の延原倉庫の敷地も春日神社の御旅所として保有していたそうです。

私の小学校時代は、新庄校下は、上新庄、下新庄、小松、瑞光、大隅の一部、島頭、中島住宅(今の豊新)相川で、運動会も、経大の校庭を使ったり、大隅神社の祭礼も学校から参拝したこともあります。
因みに、上新庄の三叉路は、S10頃は、堤防で松ばやしで、古くは、ここから北が神崎川で、高浜に通ずる要所でもありました。
新しく施かれている町制上、新庄一、二、三丁目も未だに中町、西ノ町、浜ノ町があり、隣同士が町が違う面もあり親戚単位で区分され、春日神社の祭礼も旧の町単位で行われている。
淡路駅から上新庄駅は、線路が大きく東にカーブしているが、これは地元の有力者が引きこんだと聞いている。今日を予見してのことか?さだかでない。上と下の境界線を通っていれば、変わった地区になっていたことでしょう。

今の下新庄駅の線路は、昔、国鉄の東海道線だったことを存じている方は少ないでしょう。
阪急電車も、子供の頃は、1両でトロトロ走っていて土盛りのホームから一望淀川の堤防を見ながら立ちションしてから乗車した頃が懐かしい。

メンフィス 2002/02/24(日) 00:34:15

 セブンスさん 初めまして。
 何よりも、セブンスさんのような人生の先達が、上新庄ネットをご覧になり、書き込んで下さいましたこと、たいへん恭悦に存じます。 管理人さんもお喜びになられることと思います。

 荷車に「西成郡新庄村字上新庄」と書かれていたということは、新庄村の分村以前に上新庄と下新庄という名称が存在したということで、にわか郷土史家の私にとっては貴重な情報です。 (^^)

 昭和10年頃といいますと、上新庄地区には市バスもなく、鐘紡東口(現・東淡路一/エバーレ前)止まりだったと聞いています。
 上新庄駅が高架になる以前は、渋滞で有名だった「島頭踏切」、市バス停留所の「島頭本通」(現・上新庄駅北口)と、島頭の名が残っていたようですが、残念ながら今では殆ど耳にすることもありません。

>因みに上新庄の三叉路は、S10頃は堤防で松ばやしで古くはここから北が神崎川で高浜に通ずる要所でもありました。

 亀岡街道のことですね。御旅町は神崎川の南に位置するにもかかわらず、東淀川区ではなく吹田市であるのを不思議に思って調べことがありましたが、礁渺スさんのおっしゃるとおり、昔は川が大きく南に蛇行していたので、現在も吹田市域なのだと知りました。御旅町の名も、高浜神社の御旅所であった事に由来するそうです。

>今の下新庄駅の線路は昔国鉄の東海道線だったことを存じている方は少ないでしょう

 明治期の淀川の付け替え事業(これによって天王寺庄村、豊里三番村などの 現・豊里地区は、淀川を境に北と南に分断されて、大切な耕作地が淀川の底になってしまうという憂き目に遭うのですが・・・)と新淀川建設事業によって、旧国鉄東海道線も新線への付け替えを余儀なくされて、新京阪(現・阪急)にその一部を移譲したことから、今日の阪急京都・千里線があるとのことです。

 実を申しますと、東淀川の歴史に興味をもって、あちこちを調べ始めた頃、陸軍参謀本部作成の明治時代の地図を偶然にも目にすることができ、旧国鉄東海道線を阪急電車が走っている形跡があるのをその時初めて気づかされ、たいへん驚いた記憶があります。(JR線の線路は狭軌で、阪急京都線は広軌であることから、その事に関しての疑問は残りますが・・・。)

 加えて昭和12年の東淀川区の地図には、弾丸特急線(現・東海道新幹線)計画の記入もあって、新幹線も元々は軍事利用が目的だったのかと、歴史を感ぜずには居られませんでした。(笑)

コスモのじゅん 2002/02/25(月) 01:06:32
 いまさらなんですが,高校の日本史で旧地名(下総=千葉北部・上野=群馬)など)の上下は京都に近いほうを上としたと教わりました.当てはまるでしょうか.

メンフィス 2002/02/25(月) 22:26:08

上新庄ネットでは大先輩の、コスモのじゅんさん、こんにちは♪

>高校の日本史で旧地名(下総=千葉北部・上野=群馬)など)の上下は京都に近いほうを上としたと教わりました.当てはまるでしょうか.

 確かに国の名称においては、都(御所)を意識した使われ方をしているようです。

 上野や下総のような[上○・下○]型の国の他にも、越前や備中、羽後などの[○前・○中・○後]型の国の場合も、都から見て手前であるかどうかが指標になっているようですが、豊前・豊後や、肥前・肥後などの例外もあって、この場合は、都に通じる道において上手側にあるのか、或いは下手側になるのかが指標となるようです。
 古文書にも、都へは【上る】という表現がなされていますし、逆に地方へは「鎌倉殿(源頼朝)聞こし召し及ばれ、判官殿(源義経)主従、北陸道へ下向あるよし」などといった表現を使用しています。

 しかし上新庄と下新庄における上下の別に関しては、近世に登場したこともあって、DOKさんや、上新庄に住んで40年さんのおっしゃるように、私も、耕作にとって重要な「水路の上下」による説の方が有力であるように思います。
 ハッキリした解答のある数学と比べて、人間の感情が大きく左右して理屈の通らないところに、歴史の面白さを見い出してはいるんですが、実のところ、モヤモヤさせられっぱなしです。(笑)

上新庄に住んで40年 2002/02/27(水) 16:04:09
ごめんなさい。中島大水道説、間違いでした。
東淀川農業協同組合が創立25年記念で出版された中島大水道の浩治を記録した本を見ていましたら、その中に、古地図があり、中島大水道の出来る前の地図に、上新庄村、下新庄村という地名がありました。江戸時代の写しのようで、詳しい制作年代は不詳ですが、私の先に書きました説は、間違いでした。ごめんなさい。

メンフィス [E-Mail] 2002/02/28(木) 10:45:26
 上新庄に住んで40年さん、そんなに恐縮なさらないで下さい。 (^^;

 その後、以前に集めた資料を引っ張り出して、私なりにもう一度調べ直してみたのですが、私の手元にある寛永年間(1624〜1644年)の地図にも、確かに上新庄村の記入が為されていました。(笑)

 中島大水道は、大道村(現・大桐、大道南地区)庄屋・沢田久左衛門、新家村(現・菅原)庄屋・一柳太郎兵衛、山口村(東中島)庄屋・西尾六右衛門の3名の号令のもと、お上に頼らず、東淀川区の村民が一致団結して、申新田(現・此花区)までの 約10km の区間を掘りあげて 1678年(延宝6年)に完成した、当時としては画期的な民間事業だったようです。

 寛永年間といえば、延宝年間よりも約40年くらい前の時代ですので、中島大水道説は確かに消えたかもしれません。 しかし中島大水道でないにしろ、淀川や神崎川などからの水利に、少なからず影響されていると見るのが自然だと思っています。 (^^)

 兎に角、上新庄に住んで40年さんのおかげで、私も明治期以前の上新庄が、村として存在していた事実を知らされたワケですし、どうやら上新庄村と下新庄村は、淀川の氾濫や飢饉による人口の減少などが原因で、江戸時代にも何度か、合村と分村を繰り返していた様子が分かってきました。
 それから新たに、現・井高野の由来を示すと思われる【居鷹村】の存在も、その地図から確認できました♪ 井高野の名前の由来は、他の地区と比べても謎が多いだけに、私にとっても大収穫です♪

 自慢できませんが、私の方こそ、知る人ぞ知る「早とちり」や「思い込み」の常習者です! ですから、上新庄に住んで40年さん! 何とぞ、恐縮などなさらないで下さいね。 (^^ゞ

 因みに、新庄小学校の創立は明治8年9月で、この時の住所は間違いなく西成郡新庄村です。(笑)

 これを機会に、また何か東淀川区の歴史情報などがありましたら、是非ともお知らせ下さい♪
 ネットでは滅多に貼らないのですが、“到達性のある メアド”も、一応貼っておきます♪
 ただ私は突如として仕事で留守をしますので、早々のレスは期待なさらないで下さいね。 (^^;、

コスモのじゅん 2002/03/02(土) 14:13:31
>>メンフィスさん

 ご回答ありがとうございました.前にもちゃんと書いてありましたね.失礼いたしました.
 小生の出身地は東京都杉並区下高井戸という地名で,上高井戸はその西に位置します.下高井戸の南には上北沢があり,有名な下北沢とはかけ離れていますがやはりその西側にあります.
 西東京は西へ行くほど高度が上がるので当然西から東に川が流れています.という薄弱な根拠から高度説(川上下説は従属する)を主張しようと思いましたが,このあたりはまっ平らですね.これは困りました.自転車が多いはずです.

セブンス [E-Mail] 2002/03/03(日) 21:51:38

セブンスです 文字化けでご迷惑をおかけしましたm(__)m
前回思うままの書き込みで後悔しているので 少し調べ上げた事柄を
投稿します。
 ただ上と下だけのこと これに新庄の村名が入っただけで古文書の
資料も少なく解明できないのでイライラしますね。

 先ず地形を見ると縄文時代前期上町台地の東側に河内湾が広がり東
淀川区は台地北方の湾の出口付近にあり 縄文晩期〜弥生時代前期に
かけ上町台地の先端から北に延びる天満砂堆が発達して西端の一部が
陸地化し海水の流入が少なく河内潟となり古墳時代中期以降淀川の下
流には三角州が発達し 東部の大桐、大隅、瑞光、小松の一帯は日本
書紀に大隅島であると伝えられている。
 また聖徳太子は大隅島を四天王寺創建の候補地としのち西大道付近に
(593)三宝寺という別所を置いたとも伝えられる また平安時代以降は
典薬寮に属し朝廷に牛乳や乳製品を献上した味原牧(乳牛牧)があり
鎌倉時代以降開墾が進み庄園化した新庄の村名は(1461)寺の古文書に
「乳牛牧内三職方田数之事」の名請人の住所に新庄にちなむとも
天正6(1578)茨木城主中川清秀の出城新庄城にちなむとも伝えられている
因みに同年 春日神社はそれまで榊の神木を産土神としていたが奈良春日社
の分霊を勧請し本社とした。

ここで大きく反れますが 大阪で開催される大相撲春場所毎年高砂一門の
中村部屋が春日神社を利用し、今日、3/3は地域との交流で力士の紹介、
取り組み、ちびっ子の挑戦の後 部屋でただ1人の関取十両須磨の富士の
化粧回しの披露などがあり元富士桜親方を先頭に頑張っている姿に感銘を
受けました 地域に密着した部屋の力士の今後大躍進するよう声援して
あげようではありませんか(^o^)

 推古天皇16/6/15条(593)江口がみえるが江口の発展は延暦4(785)
淀川と三国川(神崎川)が結ばれてからで三国川は元は淀川とは別の
流れで安威川の下流に当たる水路であった。
ところが改修工事で江口は平安京から山陽、西海両道へ行く道と南海道
方面え行く道とに分かれる交通の要衝で 特に平安中期以降紀伊熊野、
高野山、四天王寺、住吉社など参詣が盛行し、また、荘園制が発達し
貴族、権門寺社などの荘園領主と現地の人間、物資の交流、輸送が激増
し、江口宿にはその往来の客を目当てに多数の遊女が集まり「昔も今も
人様のすることは変わりないですね」神崎、蟹島、などと並んで色里と
として繁栄した。
遊女は群をなして小舟に乗って旅船に近づき大声で呼び込み上は郷相下は
庶民にまでおよんだそうです。

 ここで私流に推察すると
この三国川を江口から下って左岸に新庄村が接しており途中に亀岡
街道の吹田渡しがクロスし天皇島等点在する地点で 遊女か、船頭
か、旅人の会話で「ここから上が上の新庄で江口は近いよ」とか
「上新庄が過ぎたから下新庄だよ」が村民に伝わり遊女らが上と下
の名付け親と思う

以上長文のためここまで。次回機会あれば続きを


メンフィス [E-Mail] 2002/03/06(水) 02:28:53

◆コスモのじゅんさん、こんにちは♪

>高度説(川上下説は従属する)を主張しようと思いましたが,このあたりはまっ平らですね.これは困りました.

 歴史というのは答えのない学問だとも言われますので、もちろん高度説もありですよ! (笑)
 歴史学者は、邪馬台国の九州説や大和説を顔を真っ赤にして主張し合っていますが、実は論争そのものを楽しんでいるように思えて、羨ましい限りです。(笑)
 私もそういった論争は大好きですし、そこから新たな発見が生まれる可能性は無限大だと思います。
 それに歴史に限らず、先入観や固定観念は、結局は真実をゆがめてしまいますしね。

 スレッドの趣旨から逸れてしまいますが、コスモのじゅんさんって東京の方だったんですね。
 大阪人である私は、大阪がラテン系なら東京はアングロサクソン系という風に、「東京=よそ行き」という“固定観念”(笑) がありましたが、世田谷に住む友人から、「杉並には今も昔ながらの商店や市場が健在で、下町情緒が残る人情のあふれた街」 だと聞かされました。 (^^ゞ
 蛇足ながら、杉並区ではスーパーの袋に5円の地方税がかかるとかで、ちょっとした騒動になっているとも聞きました。 (^^;

 これまた話題が逸れて恐縮ですが、地名の由来に関係する本を読みあさっていた頃、東京都内の地名には【五反田】など、アイヌ言葉が語源と思われる地名が点在すると知りました。
 やはり縄文人はアイヌ民族だったのかも知れませんね。 (^^)


◆セブンスさん、こんにちは♪

 礁渺スさんの正体は、“セブンス”さん、だったんですね。
 どおりで「礁渺」をネットで検索すると、パチンコのページが大当たりするはずです。 (笑)

 太古の時代まで遡ってお調べ下さいまして、恐縮です。 (^^ゞ

>東部の大桐、大隅、瑞光、小松の一帯は日本書紀に大隅島であると伝えられている。 また聖徳太子は大隅島を四天王寺創建の候補地としのち西大道付近に(593)三宝寺という別所を置いたとも伝えられる。
 
 先に話題となりました【島頭】は、まさしく大隅島の北端で、島の頭という意味で付けられた地名だと聞いています。
 また、四天王寺創建の候補地だった事に由来して、天王寺庄村(現・豊里地区)という村名が存在したのですが、残念なことに、東淀川区からはその名前は消滅してしまいました。 
 淀川付け替え事業によって天王寺庄村が分断され、今は旭区となってしまった【太子橋】が、その名残を留めるばかりとなっているようです。

>ここで私流に推察すると、この三国川を江口から下って左岸に新庄村が接しており、途中に亀岡街道の吹田渡しがクロスし、天皇島等点在する地点で、遊女か、船頭か、旅人の会話で「ここから上が上の新庄で江口は近いよ」とか「上新庄が過ぎたから下新庄だよ」が村民に伝わり、遊女らが上と下の名付け親と思う

 セブンスさんのお話、興味深く拝見させてもらいました。 (^^)
 ただ、遊女説で行きますと、【江口】で遊女の里が繁栄した奈良・平安期に、新庄村そのものが存在したかどうかがネックになりそうです。

 乳牛牧の【新荘】説の土台である古文書は、1461年(寛正2年)の記録ですし、先に述べました中川清兵衛清秀の【新城】説ですと、更に時代を下って 1578年(天正6年)頃となります。
 能楽の祖、観阿弥の「江口」は、1400年頃の作品で、すっかり寂れてしまった江口を嘆く場面が登場しますから、すでに鎌倉時代には遊女の里は消滅してしまっていただろうと推察されます。
 また、現・北浜の高麗橋を起点とする亀岡街道は、江戸期になってから整備された街道だとのことですので、吹田渡が存在したかどうかは不明で、残念ながらその付近が、その頃の要衝だったかどうかも定かではありません。

 このことから、遊女と新庄との関係には時代にズレが生じてしまって、セブンスさんのお話にも矛盾が生じてしまい、遊女説は少しばかり苦しいように思われます。 (^^;

 しかし何れにしましても、皆さんや私と同様に、セブンスさんも、都への敬称説ではなく、川が影響しているのではないか?との結論になりそうですね。 (^^)

>大阪で開催される大相撲春場所、毎年高砂一門の中村部屋が春日神社を利用し、今日、3/3は地域との交流で力士の紹介、取り組み、ちびっ子の挑戦の後 部屋でただ1人の関取十両須磨の富士の化粧回しの披露などがあり、元富士桜親方を先頭に頑張っている姿に感銘を受けました。地域に密着した部屋の力士の今後大躍進するよう声援してあげようではありませんか(^o^)

 近くに住む身でありながら、おすもうさんがいらっしゃるなんて、全く知りませんでした。
 幼少のみぎり、江口橋の南に在る「三日月タクシー」さんのところには土俵がありまして、浴衣姿のおすもうさんは、春の風物詩になっていました。
 SPストア(現・バーモス)で、よく買い出しなさっていたのを記憶していますが、残念なことに、いつの頃からかお見かけしなくなりました。

 「須磨の富士」関ですね? 上新庄ゆかりの力士として、シッカリ応援させてもらいます♪ (^^)

 これを機会に他にも何か上新庄関係の情報等が御座いましたら、歴史情報に留まりませず、掲示板若しくは管理人さん宛まで、ご一報賜りたく存じます♪ m(_ _)m

ハイジ 2002/06/25(火) 20:18:30
初めて、書き込みさせてもらいます。宜しくお願いします。
教えていただきたいことがあり、こちらに来ました。下新庄の覚林寺について、教えていただきたいのです。どういう風にこのお寺が出来たとか、このお寺の歴史を、教えていただけないでしょうか。お願いします。

riderfight [HomePage] 2005/03/28(月) 22:24:32
メンフィスさん はじめまして
>上新庄駅が高架になる以前は、渋滞で有名だった「島頭踏切」、市バス停留所の「島頭本通」(現・上新庄駅北口)と、島頭の名が残っていたようですが、残念ながら今では殆ど耳にすることもありません。

とありますが、私の実家は旧島頭にあり、現に今でも島頭町会が実在しております。そこの青年部に所属していますので、間違いありません。
例の踏み切りの辺を中心に、上新庄3丁目・瑞光1丁目の大部分が島頭町会に所属しています。今でも島頭は大隈神社が氏神で春日神社や松山神社ではありません。今も秋祭りは大隈神社を冠して行われています。

riderfight [HomePage] 2005/03/28(月) 22:27:23
ちなみに、島頭地域はかつて大隈の飛び地であったところなので、上新庄のほかの地域と氏神が違うのです。

えぐちー 2005/03/29(火) 18:43:14
riderfightさんのおっしゃるとおり、別所や三宝寺等、町会名として、かつての名称が残ってますよね。それぞれの由来も解って、「上新庄ネット」的、目からうろこが落ちました。

メンフィスさんのくだりで、「幼少のみぎり、江口橋の南に在る「三日月タクシー」さんのところには土俵がありまして…」は、私の原体験でもあります。あの土俵に勝手に上がって、相撲もしたことあります。
上新庄地域の郷土史でまた、新しいことを教えてください。楽しみにしております。

こんにちは! 2009/05/30(土) 17:50:01
僕も参謀本部測量地図(明治33)とさらにそれより前の
明治前期関西地誌図集成(明治18)の複写を持っております。
その明治18年の地図に島頭は北大道村字島頭とあります。
この地図を見ると上新庄のいろんな事が分かってきますよ!

大桐に住み始めたばかりですが 2009/06/21(日) 18:19:26
「新庄」とは新しい荘園という意味です。
近辺に「天王寺庄」という所が明治時代まではありました。ここの人達が新地を開拓して移っったので「新庄」となったと思います。
元いた所に近いところが「上」、遠い所が「下」となったと思います。

大桐に住み始めたばかりですが 2009/06/21(日) 18:29:42
「大桐」という地名の由来を次のように推測しています。
明治時代には「大道」という村名(字名)であった。
この地が大阪市に編入した時(明治後半?)、天王寺付近に「大道」という村名があり、混同を避けるため漢字を変え、「大桐」になった。
元の「大道」という村名は「中島大水道」に由来するのではないか?

返信書き込み
■ お名前(ペンネーム可)
  
■ メールアドレス(省略可、半角で入力)
  
■ ホームページアドレス(省略可、半角で入力)
  
■ 発言(エラー時再送信禁止)
  ←解決時は質問者本人がここをチェックしてください。
  
Content-type: text/html; charset=Shift_JIS Error

System Error! - 当サイト内からアクセスして下さい